生物多様性の定義には、文化が影響する
現在の産業には、生態系や自然環境の状態を改善し、積極的に回復させることを目指す「ネイチャーポジティブ」なアプローチが求められている。それは2030年までに年間10兆米ドルのビジネスチャンスを生み出し、3億9,500万人の雇用創出をもたらす可能性があるという。わたしたちはどのようにして、この地球の一大プロジェクトを実現できるのだろうか?
10月9日に東京ミッドタウンで開催された「スイス・日本経済フォーラム2024」は、駐日スイス大使ロジェ・ドゥバッハによる冒頭挨拶と、アーティストであり研究者・電子音楽作曲家のマーカス・メーダーによるアート・サウンドパフォーマンスで幕を開けた。
基調講演に登壇したマイケル・スカップマンは、チューリヒ大学学長を務める傍ら、同大学地理学科(リモートセンシング研究室)の教授でもあり、生物多様性に関する著名な専門家だ。彼の研究領域には、宇宙から生物多様性を測定するための地球観測と分光学も含まれる。スカップマンは10分間の基調講演のなかで、生物多様性の測定がなぜ複雑になりうるのかを話した。
複雑になる理由のひとつに挙げられたのは、文化的な偏向(バイアス)だ。「例えばスイスでは、生物多様性というと、人間の手が加えられていない自然の風景をイメージすることが一般的ですが、これには非常に大きな文化的バイアスが存在しています。生物多様性の定義には歴史的・文化的、さらには宗教的背景が大きく影響し、評価にも反映されるのです」と述べた。スカップマンは「驚くべきことに」と前置きし、欧州委員会による生物多様性の定義には人間も含まれていることを紹介した。
さらにスカップマンは、自然と“うまく付き合うこと”の難しさについて触れた。その難しさは、自然が「社会のための自然」と「自然のための自然」という異なる側面をもつことに起因するという。
「社会のための自然とは、ゴルフコースのようなものです」とスカップマンは例を挙げる。「わたしたちは、自然を自分たちの望むようにデザインします。それゆえ、ゴルフコースは緑に溢れている。なぜなら、わたしたちがそうあるべきだと考えるからです」。つまり、社会のための自然とは、人間の都合を踏まえた自然観だということだ。
しかし、「自然のための自然」は、ときに人間の都合と相反するという。スカップマンは「例えば、スイス国立公園は1914年に設立された自然保護地区です」と続ける。かつて、スイス国立公園内の鉄鉱石から鉄を取り出すために、多くの木が薪として使われていた。伐採が進み、その土地にはもはや何の価値も見出されなくなり、やがて保護区に指定されたという。
「それから110年後の現在、スイス国立公園の樹木は約30%が枯れている状況です。スイス国立公園を歩くと、人々は『これはわたしが思う国立公園ではない』と不満を言います。これは、人々が『社会のための自然』と、自然を自然に任せる『自然のための自然』を混同しているケースだと言えるでしょう」とスカップマンは述べる。
「生物多様性について議論する場合は、このことを念頭に置く必要があります。誰もが異なる文化的背景をもち、その立場から議論していますから」
生物多様性は儲からない?
こうした難しさのなかで、わたしたちはどのようにして対話を深め、ネイチャーポジティブ、あるいはリジェネラティブな経済へとシフトできるのだろうか? 第一部のパネルディスカッション「岐路に立つ生物多様性:基準、目標、インセンティブの進化中の舵取り」で議論になったのは、企業が生物多様性の領域に取り組むときのインセンティブだ。このパネルのモデレーションは、レプリスクジャパンのシニアESGアカウントマネジャーである瀬戸陽子が務めた。
2022年11月から、「自然関連財務情報開示タスクフォース(TNFD)」のタスクフォースメンバーである農林中央金庫エグゼクティブ・アドバイザーの秀島弘高は「レピュテーションの観点では、企業にも取り組む意義があると思いますが、金銭的なインセンティブは必ずしもあるとは限らないと考えています」と話す。そして、既存の炭素税に相当するネイチャーネガティブな活動への税金の導入を提言した。
同じくパネリストの京都大学農学研究科教授の栗山浩一は、「生物多様性の保全に貢献しても、企業の利益に直接的にはつながらないのが現状の最も大きな課題だ」と話す。方法としてTNFDのような情報開示はあるが、それでも効果は限定的だという。そのうえで栗山は、「(生物多様性を保全する取り組みに報酬を与える)生物多様性クレジット」が有効であると提案した。「CO₂排出量取引と同様の考え方で、企業が生物多様性の保全に貢献した際、そのクレジットをほかの企業や海外に売却できる仕組みです。いまは市場が未発達でも、将来的に整備されていけば、企業は保全活動から利益を得られるようになるでしょう」と栗山は添えた。
sustainacraft代表の末次浩詩は同意を示す一方、「生物多様性クレジットが、まだ市場に受け入れられていないことが課題」と話す。「例えば森林ファンドは、不動産価値と木材収益、それに少しカーボン収益を重ねるかたちで成り立っています。ただ最近、植林案件で1tあたりの炭素価格が50ドルに達するなどの変化も見られます。特に米国では大企業が長期的に炭素クレジットを購入し、金融機関がデットファイナンスを提供しています。炭素便益に加え、生物多様性や水源涵養などに関する条件を定め、それを満たせば返済条件が緩和されるケースも増えているんです」と金融機関を通じた取り組みへの期待を語った。
これらに対し秀島は「気候変動に関しては、ネットゼロや1.5度目標といった世界的な指標が存在しますが、自然分野においては、これに相当する明確な目標が定まっていない」と、国際社会がネイチャーポジティブに向かうなかで取りこぼされている議論を明らかにした。
企業はいかに行動するのか
続いて、世界経済フォーラム 自然と気候部門 ネーチャー・ポジティブ共同代表のニコール・シュワブが、パネルディスカッションを受けて4つのポイントを整理した。まず1つ目は、自然関連リスクを監視し、軽減するための新たなグローバルでの基準や枠組みが増えていること。これらは規制当局やTNFDなどによって開発され、多くの日本企業も参加しているが、依然として強制力のない自主的なフェーズにあること。
2つ目は、昆明・モントリオール生物多様性枠組の登場により、一部の措置が義務化される可能性が高まっている点。3つ目は、企業が重要な役割を担う一方で、インセンティブが不十分なこと。そして4つ目は、生物多様性の価値を評価する新しい市場の仕組みが現れているものの、現在の取引は主に炭素に関連しているという点だ。
生物多様性分野のリスクが急速に高まるなか、彼女は信頼性の高いデータと測定の重要性を強調する一方で、「このシフトは、さまざまなセクターにとって大きなチャンスにもなりえます。いまこそ行動を起こし、変革を始めるべきときなのです」と締めくくった。
続く第二部のパネルディスカッションでモデレーターを務めたのは、『WIRED』日本版編集長の松島倫明だ。タイトルに「公約から行動へ:自然再生への課題、機会、そしてイノベーション」を掲げ、企業はいかにアクションにつなげるかという議論が繰り広げられた。
日本でもすでに120社以上がTNFDを採用するなか、清水建設はその導入をいち早く行なった企業のひとつだった。導入に至るまでの具体的な道のりについて、パネリストのひとりである清水建設環 境経営推進室 グリーンインフラ推進部部長の橋本 純は「TNFDによる情報開示は、企業として自然資本とビジネスの関係をしっかりと見せていく羅針盤になりうると考えました」と振り返る。
「建設業は、原材料の調達から廃棄物処理まで、あらゆる段階で自然と深くかかわる産業です。そのため、自然資源に依存する責任を認識し、TNFDの枠組みに基づく透明な情報開示が求められていると思います。なかでも特に、わたしたちは木材使用時に認証材の活用を進め、2030年までに非認証の外国産合板の使用をゼロにする目標を掲げています」と橋本は言い添えた。
パネリストとして参加したスカップマンは「建設業界こそが、生物多様性への影響を最も認識している業界であると考えています」と重要性を強調した。「現在、天然資源をめぐる競争が激化しています。もし皆が同時に天然資源の利用を始めたら、世界の森林面積は大幅に減少するでしょう」
ビジネスの現場において、テクノロジーを駆使しながら生物多様性の保全に貢献しているケースとはどのようなものか。パネリストの藤木庄五郎が起業したバイオームは、生物の多様性をモニタリングするアプリ『Biome』を開発・運営するスタートアップだ。藤木は「生物多様性保全は儲からないとよく言われます。そこで、ビジネスの主眼に生物多様性の保全を掲げる会社を立ち上げました」と話す。
藤木は、ふたつの重要なポイントを挙げる。「第一に、生物多様性を定量化し、適切に評価する必要があります。これは第1セッションでも話題になりましたね。第二に、より多くの人々にこの領域に関心をもってもらうことが求められます。バイオームが開発したアプリ『Biome』はゲーム感覚で生物をコレクションするもので、100万人以上が利用し、1日に約1万件の生物発見情報がリアルタイムで更新されています。また現在、800万件以上のデータが日本で収集されており、これを保全活動に活用しているんです」と藤木は話す。定量化が話題となっていた本フォーラムにおいて、バイオームによって示されたこの数字は、まさに希望と呼ぶべきものだ。
『WIRED』日本版は、昨年「THE REGENERATIVE COMPANY」特集を刊行し、経済活動を通じて人々のつながり、社会、生態系、経済システムを再生する国内外のカンパニーを紹介した。編集長の松島倫明は、資本主義という既存のシステムをうまく活用しながら、生物多様性の保全に接続させる方法も必要だという。「環境保全を投資可能にする」をコンセプトに活動するインベスト・コンサーベーションの最高商務責任者アニア・ルントクィストは、「生物多様性の保全には、毎年2,000億ドルの資金を投入する必要がある」と続けた。
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「慈善事業の領域を超えて、民間資本を活用することが不可欠だと思います。熱帯雨林は気候変動対策の23%を支えるポテンシャルをもつものの、資金提供は全体のわずか3%にすぎません。この問題を解決するためにインベスト・コンサベーションは設立されました。わたしたちは、地元の保護団体と連携し、熱帯雨林の生物多様性ホットスポットに焦点を当てた活動をしています」
実践のなかで見えてきた希望と課題が交錯するトークが繰り広げられ、ここで示された数字は未来をつくる土台となるだろう。
1.5℃未満のシナリオはもはや存在しない
フォーラム終盤には、EPFL(スイス連邦工科大学ローザンヌ)学長のマーティン・ベッテルリが登壇し、これまでの議論を要約しながら「熱帯雨林のモニタリングや市民科学の取り組みは非常に興味深く、清水建設のような日本の大手企業が生物多様性の目標を掲げ、実行に移していることには希望を感じます」と述べた。
また、ベッテルリは「完璧を求めすぎて行動を遅らせることは避けるべきでしょう。そのためには、科学とテクノロジーが鍵になりますが、現実的なビジネスモデルが不可欠です。CO₂の削減がビジネスモデルとして機能しているように、生物多様性にも市場インセンティブが必要なのです。企業は規制を嫌うため、政府による効果的な規制とインセンティブの整備が不可欠となります」との提言を残した。
フォーラムの最後を締めくくったのは、持続可能な開発のための世界経済人会議(WBCSD) プレジデント兼CEOのペーター・バッカーだ。彼は「緊急性を強調させてください」と前置きし、ポツダム気候影響研究所所長ヨハン・ロックストロム教授らが開発した「惑星の健康診断」に触れた。ロックストロム教授は「プラネタリー・バウンダリー」、つまり人類が生存可能で安全な活動領域と、限界点を定義する概念におけるリーディング・サイエンティストのひとりで、これは地球の健康状態を定量化し、人間の活動が地球に与える影響を逆転させるための解決策を提示するものだ。
「毎年これによって、わたしたちの惑星がどのような状態にあるかがわかり、すでにいくつかの重要なメッセージも発信されています。まず、世界の平均気温の上昇幅を1.5℃に収めることは不可能だということ。1.8℃から2.7℃の間で着地することになるでしょう」
さらに彼は、「もはや海や森の力だけでCO₂を十分に吸収することができないのは明らかです。 したがって、気候変動と戦うには、わたしたちの産業やライフスタイルの脱炭素化にとどまらず、自然の回復に全力を注ぐことも重要だという結論になります」と続けた。
わたしたちはこれから毎年、こうした希望を失うような数字に直面することになる。だからこそ人類は、希望を語り継いでいく必要がある。それゆえに「ネイチャー・ポジティブな解決策への移行は、2030年までに年間10兆米ドルのビジネスチャンスを生み出し、3億9,500万人の雇用創出をもたらす可能性がある」ということなのだ。
※スイス・日本 経済フォーラム2024は、スイスと日本の国交樹立160周年を記念した「Swiss Vitality Days (スイス・バイタリティ・デイズ)」の一環として開催された。
森 旭彦|AKIHICO MORI
京都を拠点に活動。主な関心は、新興技術と人間性の間に起こる相互作用や衝突についての社会評論。企画編集やブランディングに携わる傍ら、インディペンデント出版のためのフィクション執筆やジャーナリスティックなプロジェクトを行なう。ロンドン芸術大学大学院メディア・コミュニケーション修士課程修了。
(Edited by Erina Anscomb)
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