WEATHERING

先進国で妊産婦死亡率が上昇、健康格差がさらに進む──特集「THE WORLD IN 2024」

なぜ、裕福な国においても妊産婦死亡率の上昇が指摘されていのか? 政府が真剣に対処しなければ、人種や階級差別、貧困などのストレスに晒されるマイノリティ集団の健康状況は悪化の一途をたどるだろう。
先進国で妊産婦死亡率が上昇、健康格差がさらに進む──特集「THE WORLD IN 2024」
ILLUSTRATION: MARK LONG

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世界中のビジョナリーや起業家、ビッグシンカーがキーワードを掲げ、2024年の最重要パラダイムを網羅した恒例の総力特集「THE WORLD IN 2024」。公衆衛生学の専門家であるアーライン・ジェロニムスは、社会から疎外され搾取される人々が、そのために複数の感染症や慢性疾患を患うなど深刻な健康被害に遭っている現状を指摘する。


裕福な国における妊産婦死亡の80%は予防可能と結論づけられているものの、2024年に米国と英国の妊産婦死亡率(MMR)は上昇すると見込まれている。1990年から2010年の間、西ヨーロッパとアジアの高所得国ではMMRが減少しているものの、例えば英国のように、この10年間で増加した国もある。米国では、21世紀初頭にほぼ倍増し、押し並べて異常値を記録している状態だ。

MMRが増加するとの予測を支持する理由として、新型コロナウイルスの影響がいまなお続いていることが挙げられる。しかしながら、米国と英国ではそれ以前からMMRが増加していた。つまりパンデミックは、この根深い問題をさらに悪化させたに過ぎないということだ。

医療制度に対する無関心と、社会構造がもたらす偏見も原因のひとつだ。米国では、国民皆保険の欠如と競争が激化する医療制度が、問題改善への大きな足かせとなっている。産科医療のプロバイダーが激減し、米国全土の36%に当たる郡(そのほとんどが農村部)には産科医療機関がないという深刻な状況だ。また英国では、理論上はすべての国民が医療を受けられることになっている国民保健サービス(NHS)が、慢性的な資金難に苦しんでいる。NHSの産科病棟の半数は現在、必要な水準を満たしていないと判定されているありさまだ。

どちらの国においても、産科医と助産師の多くが燃え尽き症候群に苛まされ、ストライキのほか、国外への転勤、引退、転職などを選択している。また、人種や階級による根深い格差もある。MMRとその増加率が最も高いのは、人種的マイノリティ、労働者階級、または貧困層なのだ。医療制度が不十分であることが致命的なダメージを与えているが、健康格差の根底にあるのは、こうした人々を取り巻く偏見や差別に満ちた劣悪な生活環境だ。

貧困、有害な環境、老朽化したインフラ、社会構造に根ざした社会的ストレスなど、人々が強いられるさまざまな困難は、人間の生理的ストレス反応を慢性的に活性化させるという確固とした科学的証拠がある。こうしたストレス要因と、それに耐え続ける毎日の厳しい生活が相まって、細胞レベルまで健康を損ない、生物学的老化を加速させてしまう。

このような健康被害は「weathering(風化)」と呼ばれる。社会から疎外されていたり、悪意や搾取にさらされたりしている人々は、高齢に達する以前に複数の感染症や慢性疾患を患い、身体機能が制限され、死に至ることさえあるのだ。さらに、その被害が最も深刻な集団では、高齢出産が増加傾向にあり、妊産婦や乳幼児に望ましくない結果をもたらすリスクが高まっている。

こうした健康被害は、生殖年齢を過ぎてから生命を脅かすようになることが多いので、死因との関連性の判断はたやすくない。一方、ダメージが進んだ身体では、妊娠による身体的ストレスに耐えることは難しく死に至ることもあるため、MMRは妊婦に対する「weathering」の影響を示すバロメーターになのだ。

政治情勢が拍車をかける

人種や階級差別、外国人嫌悪、政治的偏向、白人ナショナリズム、緊縮財政などによって、24年にこうした健康被害は加速していくだろう。英国のEU離脱(ブレグジット)は現在、労働力不足やサプライチェーンのボトルネック、インフレ、国内総生産の減少を深刻化させ、こうした被害を生み出す発端のひとつとなっている。米国や西欧諸国でも、マイノリティや移民が完全に受け入れられているわけではない。戦争と気候変動により有色人種の移民の流入が増えることで、この問題は激化するだろう。

こういった状況にあるにもかかわらず、英国の政府平等局は、健康格差の原因が体系的な人種差別にあるという考えを否定している。実際、21年に作成された人種と民族の格差に関する調査報告書では、根拠のない被害者非難に終始し、格差の原因はマイノリティ集団が主体性を発揮せず、豊富に提供されている健康増進の機会を活用できていないことにあると推論しているのだ。

また、政治的分裂が社会に大きな影響を及ぼしている米国では、影響力をもった勢いのあるポピュリズムが台頭し、米国の歴史を白紙に戻そうとしている。このポピュリズムに対抗し、人種・階級差別の歴史を真摯に受け止めようとする人々の運動は、社会の底流にくすぶり続ける責任のなすりつけ合いや一方的な他者否定の考え方と衝突を繰り返し、「風化」の問題はより広い範囲で深刻化していくだろう。

アーライン・ジェロニムス|ARLINE GERONIMUS
公衆衛生学の専門家。ミシガン大学教授。人種的・文化的・経済的に抑圧されている集団における早期の健康悪化などを研究テーマとし、1992年に風化仮説を提唱。著書に『Weathering』がある。

TRANSLATION BY OVAL INC., EDIT BY ERINA ANSCOMB


雑誌『WIRED』日本版VOL.51
「THE WORLD IN 2024」

アイデアとイノベーションの源泉であり、常に未来を実装するメディアである『WIRED』のエッセンスが詰まった年末恒例の「THE WORLD IN」シリーズ。加速し続けるAIの能力がわたしたちのカルチャーやビジネス、セキュリティから政治まで広範に及ぼすインパクトのゆくえを探るほか、環境危機に対峙するテクノロジーの現在地、サイエンスや医療でいよいよ訪れる注目のブレイクスルーなど、全10分野にわたり、2024年の最重要パラダイムを読み解く総力特集!詳細はこちら


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